土呂部草原の概要

特長と価値

土呂部採草地は県内最大規模の採草地で、草原性植物の宝庫である。各種の花が次々に咲く美しい草原の景観は秋の茅ボッチの並ぶ特異な景観と共に、土呂部固有のものである。

栃木県に残存する採草草地としては日光市土呂部・那須町小深堀・那須町常民夕狩の3個所が著名であるが、常民夕狩は宅地分譲されてほぼ消滅し、小深堀はノハナショウブが目立つ湿草地で植生が異なる。土呂部の採草地は湿草地を除くと、今では県内唯一の採草草地であり、その存在意義は大きい。

土呂部採草地の植生を見ると、ススキ・アキカラマツ・ヤマハギ・ワラビなどが優占し、オオアブラススキ・ハネガヤ・ミヤコザサ・ヒカゲスゲ・ヒメヤブラン・オオバギボウシ・ニッコウキスゲ・シラヤマギク・ノコンギク・カセンソウ・ヤナギタンポポ・ヤマノコギリソウ・ノハラアザミ・アサマヒゴタイ・タムラソウ・アキノキリンソウ・オトコヨモギ・ツリガネニンジン・フクシマシャジン・シデシャジン・オミナエシ・シオガマギク・タチコゴメグサ・クルマバナ・オカトラノオ・ホタルサイコ・ヒメハギ・ワレモコウ・ミツバツチグリ・チダケサシ・ケフシグロ・カワラナデシコ・オオヤマフスマなど、草原性の植物がたいへん豊富である。また、草原性の蝶類のヒメシジミが多産し、稀少種ヒョウモンチョウを産することでも注目されている。

近年、採草地などの半自然草原は急速に減少しており、それに伴って各地の草原性植物種が急減していることが指摘されている。栃木県でも絶滅が危惧される生物種のリスト(レッドリスト)に掲載の草原性の植物種は数多い。

その中でも、ヤマトキソウ・コウリンカ・オカオグルマ・モリアザミ・セイタカトウヒレン・ヒメヒゴタイ・ハバヤマボクチ・タカサゴソウ・キキョウ・キセワタ・ムラサキ・スズサイコ・フナバラソウ・チョウセンキンミズヒキ・ベンケイソウ・ベニバナヤマシャクヤクは土呂部採草地が栃木県の重要な産地となっている。

中でも、ヒメヒゴタイ・タカサゴソウ・ムラサキは土呂部採草地が今では栃木県唯一の生育地となっている。その土呂部でも、絶滅ないし絶滅寸前の状態にあり、今後の保全が大きな課題である。

集落の関係と経緯

江戸時代から続いてきた採草地

熊本県の阿蘇は現在でも2万2千haもの広大な採草地が広がっています。この採草地は長い間火入れによって管理され人々の生活に利用されてきました。その土壌中の炭の微粒子の分析などから阿蘇の採草地は1万年を超える歴史があることが最近の研究でわかってきました。

土呂部でも1955年(昭和30年)頃までは継続して火入れが行われ採草地の森林化を防いでいました。火入れがかなり長期間にわたり継続されてきたことや採草地が人々の生活に必要不可欠な資源だったことを考えると、採草地も土呂部集落の記録が残されている江戸時代中期頃から少なくとも数百年単位の歴史を持っているのではないかと考えられます。

生活と密着していた採草地

人々は採草地から生み出される茅などの資源を茅葺き屋根の材料や、青草を畑に鋤き入れ肥料にしたり、荷物の運搬や農耕のための馬の飼料など、採草地が生み出す資源を生活に必要不可欠なものとして利用してきました。

採草地は草原として維持していくため、火入れや草刈り、放牧など、さまざまな方法によって管理し大切に守られ、畑や山林などとともに人里の生活を支えてきたのです。これは全国各地に残されてきた採草地も同様です。

そして、採草地として長期間守られてきた結果、茅ボッチが立ち並ぶ美しい風景が広がり、草原性の植物が自生しさまざまな花が咲く環境も残されてきたのです。

採草地の急激な減少

ところが昭和30年代以降の高度経済成長期になると、全国各地の人里の暮らしは一変します。屋根は茅葺きからトタン屋根に、堆肥などの有機肥料は化学肥料に、馬は車や耕耘機に代わっていき、採草地は人々の生活から少しずつ離れ、管理を放棄されたり、スギやヒノキの人工林に変えられていきました。全国の人の手が入って維持されてきた採草地が急激に減少したのが正にこの時期です。

土呂部の採草地も同様に消滅の危機に瀕していましたが、あることがきっかけで再度利用され残されていくことになります。

土呂部に残されてきた採草地

では、土呂部ではなぜ今まで採草地が残されてきたのでしょう。これは土呂部の人々がどのような仕事で生活の糧を得ていたかに密接に関係があります。

戦前までは、土呂部の人々は主に山仕事を生活の糧としていました。山から切り出してきた木材を挽き加工し、東照宮などの社寺が多かった日光で使う木製のお盆や膳などの材料として出荷していました。木工品は馬に積み込み大笹から小百方面に運ばれました。また、ツグミやアトリなどの野鳥を採取し現金収入を得ていた時代でもありました。

大正期、これまでの木工品の出荷は下火になり、周辺の山林を伐り炭焼きが盛んに行われるようになりました。炭は炭俵に入れ馬の背に乗せて出荷します。稲わらがほとんどなかった土呂部では、炭俵は採草地の草で作られました。この生活は石化資源がエネルギーの中心になる1960年(昭和35年)頃まで続きます。

また、これらの合間に畑で作物をつくっていましたから、荷物の運搬や耕作をするためには馬がなくてはならない存在でした。このように採草地は馬に与える飼料や炭俵の原料、また茅葺き屋根の材料として生活に必要不可欠な存在として大切に利用されてきました。

ダイコンが採草地を救った

続く高度経済成長期、この時期が全国の採草地が急激に減少する時期と重なります。土呂部でもエネルギーは石炭や石油が主流となり炭焼きも下火になり、車道が完成しこれまで馬で運搬していた荷物はトラックに、畑を耕すのは耕耘機に代わって行きました。全国の動向とリンクするように必然的に採草地を利用することが少なくなってきます。

ところが、土呂部では他の地域にない新たな産業が始まります。ダイコン栽培です。昭和30年代後半からダイコン栽培が本格的に始められるようになり、その連作障害を防ぐため大根の収穫後にエン麦が植えられました。エン麦は牛の飼料として価値の高いものであったことから、和牛の飼育が徐々に浸透していきます。和牛の飼育数が増えるのに伴い、エン麦だけでは飼料が不足するため、草を和牛に与えるため採草地の利用が復活していきます。

他の地域では多くの働き手が町に出て行き、採草地は放棄されていきましたが、土呂部では和牛飼育のために採草地を再び利用し始めたことが、現在までかろうじて残されてきた理由です。ダイコンが採草地を救ったとも言えるでしょう。

人々が守ってきた採草地

そこには採草地のみならず、農地や山林を有機的に利用してきた人里=里山がありました。その自然の恵みを利用した生活は数百年、あるいは数千年の歴史があり、これまで持続して人が守ってきました。

土呂部の採草地はこのような経過をたどり残されてきました。そこにはいつの時代でも必ず人の営みとともにあった採草地があります。人々の日々の厳しい生活が結果的に採草地を守ってきたと言えると思います。

旧栗山村(現日光市)の各地域には広大な草原がありました

旧栗山村は険しい山に囲まれ、その斜面や、鬼怒川の流れ付近にできたわずかな平地に集落があります。周辺の斜面を利用して、茅を取るための草原が広がっていました。古老の話や、史料によると、今となっては想像しにくいのですが、山地の尾根筋まで延々と続いていたようです。

それが、現在では、旧栗山村の中央部に位置する土呂部集落に残されているのみとなっています。

土呂部もすでに消滅の危機

土呂部集落の周辺にもかつて、たくさんの採草地がありました。2014年現在、約6ha弱が残されていますが、植林によって分断され、また放棄によって縮小化が進み、数か所に分散して残っているのみとなっています。

残った採草地も若木が成長して森林へ変わり始めています。毎年採草されているのは、以前の10分の1以下であり、消滅の危機にあります。

 

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